1971年07月17日GFR日本公演/嵐の夜に開催された伝説のロック・コンサート
信号待ちをしていると、「ドンドン・ジャカジャカ」と低音を響かせて走る若者の車によく出会います。
隣に並ぶと聞こえてくるのは日本人には似合わないラップのような曲か、若い女性ボーカルのチマチマした曲。何でもいいから大きな音を出して存在を主張したいのでしょうか。暴走族のように。
そんな時はいつも本来大音量で聞くべき音楽がどんなものなのか、彼らに聞かせてやりたいと思うのです。
普通の曲をただやたらにボリュームを上てジャカジャカ聞くのと、大音量で聞くべき音楽とは全く別のものであるということを。
クラッシックでもジャズでもポップスでもない。耳ではなく全身で聞く若者のための音楽がありました。
1971年、ベトナム戦争はまだ続いていた。
その日、7月17日は、当時人気急上昇中のアメリカのハードロックグループ、グランド・ファンク・レイルロード(GFR)の日本での初公演の日だった。
初公演といっても1日だけの開催。チケットを握りしめた私は期待を胸に友人と電車に乗り込んだ。
日本で初めて開催されるメジャーなアーティストによるロックコンサート。場所も後楽園球場。全てが初めての試みだった。
しかし電車の窓から見える梅雨の明けきらない東京の空は、不穏な雲に覆われていて、今にも雨が降りだしそうだった。
当時アメリカで生まれた文化、カウンターカルチャーを志向するヒッピーが注目され始めていて、私も友人も、その影響を受けた若者の一人だった。
私のお気に入りだったアメ横で買った米軍払い下げの迷彩柄ジャケットと長髪は、普段は思い切り浮いていたのだが、その日だけは違っていた。
駅から球場に向かって歩く若者の流れの中に混じった時、私達は全く目立たなかったのだ。始めて感じる不思議な共感に少し戸惑ったが、だがそれだけで気持ちは高まった。
後楽園球場に向かう途中でついに雨がパラパラと降り出し開演時には大粒の雨に変わっていた。前座は日本人ロック歌手の麻生レミ。
確か全曲がジャニス・ジョプリンのカバーだったと思うが、私はジャニスも好きだったので、初めて聞く麻生レミのジャニスっぽい歌い方があまり好きになれなかった。
天候は悪化の一途をたどり、雹混じりの雨とともに強風が吹き荒れていた。前座が全て終わって暫くしてもGFRは出てこない。すでに球場は嵐の様相を呈していた。
今日はもうダメかと思い始めた頃、突然オールナイトニッポンの糸居五郎が登場し、彼から「GFRは出演するつもりでいる」「だからもう少し待ってほしい」。彼がそう言うのならそうなのだろう。
3万2千人の観客から大歓声が沸き起こった。これで息を吹き返した私たちは雨に濡れながらも更に待ち続けた。
1時間以上待っただろうか、本来なら終演時間に近い10時半頃、ついにGFRが走って現れた。
会場は一気に盛り上がった。GFRがステージに上がった途端に突風が吹いて看板が舞い上がり、天気は完全に嵐に変わった。
観客はパンツから靴までずぶ濡れで演奏が始まるのを固唾を飲んで待った。
その時爆発としか思えないような大音響が鳴り響いた。マーク・ファーナーの聞き慣れたギターの音だった。そして伝説のステージが始まったのだ。
嵐に引けを取らないパワーを感じて、嵐への恐れは希望に変わった。もしかした今夜この嵐と対等に渡り合えるかもしれないと。
嵐はなおも勢いを増し、すぐ近くに雷が落ちた。風は全てを巻き込むように渦巻き、波しぶきのような雨が激しく打ち付けた。でも誰もが当然のように全てを受け入れていた。
スタジアムを包み込む大音響。今まであんな大きな音は聞いたことがない。
嵐と音楽が混ざり合い増幅し合っていた。そしてその巨大な混沌のパワーの中に飲み込まれて観客はその一部になった。
いつか時間の感覚を失っていた。みんなが何かを叫んでいたように思う。
メロディーなどまるで聞き取れなかっが、嵐もGFRも何もかもあり得ないほど最高だった。その場に居合わせた幸運が何よりも嬉しかった。
正に嵐の中の暴走列車!グランド・ファンク・レイルロード。
彼らもずぶ濡れだった。
そして熱狂の中でラストナンバーの「孤独の叫び」が終わった。決して忘れることの出来ない嵐の夜の思い出..
気がつくと全身から雫を垂らしながら友人と電車に乗っていた。じっとりと濡れた上着が同じ時を過ごした仲間のように愛おしく感じられた。
もともとお気に入りだったその迷彩柄のジャケットは、その日以降さらにその地位を上げ、私の最高の宝物となった。
後で聞いた話によると、彼らは感電しながら演奏していたらしい。
最高だった!GFR!
[tensen]
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